ロシア語へのいざない
「英語だってろくすっぽ喋れないのに、もう一つ外国語だなんて、面倒くせーなー。 受験勉強が終わったばかりなのに、また勉強なんて、あー嫌だ嫌だ。とにかく、できるだけ簡単そうなやつを選ぶに限るね。 えー、なになに、ロシア語だって? なんだこの文字。読めねーぞ。ロシアなんてカンケーないし。あー面倒くさ面倒くさ。パス、パス。」
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もちろん、こんな言葉をわれわれロシア語教師が直接学生の口から聞くことはない (みなさんその程度には礼儀正しいのです)。 でも、毎年の新入生の外国語選択の沈黙からは、こうした声がいつもはっきりと伝わってくる。 そう、ロシア語はあんまり人気がない。新潟大学のロシア語選択者は、ここ数年というもの、つねに少数派だ。 いや、新潟大学だけの話ではない。日本全国津々浦々、ロシア語を学ぶ人はつねに少数派で、 われわれロシア語教師は、いつも針のむしろに立たされている。 ソ連の共産主義が人類の輝かしい未来を約束しているように見えた時代はとうに過ぎ去ったし、 ドストエフスキーやトルストイの翻訳に感動してロシア語を勉強しようと思い立つような殊勝な人は、 いまや天然記念物なみに稀になった。ロシア語の少数言語化は、もはや世界の趨勢なのだ。 それに、ロシア語はたしかに難しい。そもそも、アルファベットから違う。
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でも、君たちよりは事情をいくらかよく知っているわれわれロシア語教師は、時代の流れに逆らっても、 たとえ誰も本気にしてくれなくても、はっきり言わねばならない。
「君の考えは、間違っている」
証明しよう。
(1) ロシア語はたしかに難しい言語だ。
とりあえず文字がとっつくにくいし、 この壁を突破した後でも、難しいところはいくらでもでてくる。 でも、最初の一歩を超えた後が難しいのは他の外国語だって同じだ。 Hi! How are you?と言うのがやさしいからといって、 英語がやさしい言語だなどとは誰も言わないだろう。 ロシア語はたしかに難しいが、それは英語やドイツ語やフランス語が難しいのと同じだけ難しいということでしかない。
(2) ロシア語がはっきりと他の外国語よりやさしいと言える部分だって、いっぱいある。
教科書の最初で習うことだけど、「これは家です」は、ロシア語で Это дом.(エータ ドーム)と言う。 単語は二つ。直訳すれば「これ、家」だ。be動詞は省かれる。 そして何より、ロシア語には冠詞がない。いままで君たちをさんざん悩ませてきた、あの冠詞がないのだ。 それから綴り字と発音の関係。文字さえ覚えてしまえば発音はいとも簡単。 基本的に文字と音は一対一で対応している。 wouldを「ウド」と読んだり、Freudeを「フロイデ」と読んだり、 Mademoiselleを「マドモワゼル」と読んだりなど、そんな苦労は、いっさいない。
(3) ロシア語履修者の状況はあきらかに恵まれている。
他の外国語にくらべて聴講生が少ないのだからあたりまえだ。 授業は小人数で、クラスによっては他の小人数演習なみの人数であり、 なにより一人一人の理解度を確認しながらおこなわれるから、無理に進むということがいっさいない。 いつ質問してもいいし、いつ教官の研究室に遊びに行ってもいい。 この殺伐とした世の中にあって、これほど寛いだクラスは、ちょっと他に思いつかない。
(4) ロシア語は縁遠い世界ではない。
新潟は日本海をはさんでロシアと面しているし、新潟の街を歩いているとロシア人にしばしば出会う。 歴史の面から言っても、精神的な面から言っても、 ロシアは日本人の心の底の深いところに意外なほど根を下ろしている(ただそれを意識しないだけだ)。 ロシア語を深く学べば学ぶほど、そのことは痛感されてくるだろう。 ドストエフスキーやトルストイを始めとするロシア文学、 エイゼンシテインからソクーロフにいたるロシア映画、 チャイコフスキーやショスタコーヴィチの音楽といったところから、 最近ではチェブラーシカや t.A.T.u.、果ては生協のパン売り場で売っているピロシキにいたるまで、 「ロシア」は私たちの毎日の生活のなかに息づいているのだ。
(5)ロシア語は日本では少数派だが、世界では多数派の言語だ。
英語や中国語、スペイン語にはかなわないもの、世界第五位の使用者を有する言語であり、 国連の公用語でもある。ロシア語を少し知っているだけで、世界は一気に拡大するのだ。 ロシア語既習者であることを公的に認めてくれる制度もある。 履歴書に書けるのは英検の級だけではない。 毎年秋に全国規模でおこなわれるロシア語検定を受けて、それを就職に役立てることだってできるのだ。
(6) そして何より、ロシア語履修者であることには、少数派であることの甘美な魅力がある。
ほかの外国語は、けっこうみんな知っている。 でも、君のまわりにロシア語の単語を一つでも言える者がどれだけいるだろう。 「イクラ」や「ノルマ」といった語がもともとはロシア語であることを知っている人が、君のまわりに一人でもいるだろうか。 君がひとに知られたくない思い出を手帳に書き込みたいと思ったら、ロシア語アルファベットで書くがいい。 誰も読めはしないのだ。
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さあ、ロシア語を勉強して、声低く、しかし誇らしげにつぶやいてみよう。 Я немного говорю по-русски. (ヤー ニムノーガ ガヴァリュー パルースキ)(私は少しロシア語が話せます)。 あなたを見る周囲の眼が、この呪文で一変することは間違いない。 それもそのはずだ。あなたは、ひとの知らない、限りなく豊かな世界にアクセスできる少数者なのだから。